男声史(抄)

 以下の文章は、旧ホームページのをそのまま引き継いだものです。
 オリジナルは30回定期演奏会パンフで、それに後の団員が書き加えました。

 「東北大学男声合唱団−我が青春時代を揺さ振り、眠っていた音楽の心を呼び覚し、前向きに進む力を与えてくれたもの−この名は今後忘れることのできない強魅力あるものとして脳裏に刻見込まれ、一生僕の心を潤してくれるだろう。」。
昭和45年の団報に、このような文がみられます。私達東北大学男声合唱団は昭和26年の団創立以来、より良い音楽を求めて様々な活動を経て今日に至っておりますが、50余年に亘る我が団の歴史を通じてこのような思い出を持った団員は少なくないと思います。私達がこうして2年後に第50回の定演を祝えるのも長年にわたる先輩から後輩への受け継がれがあったからに外なりません。こう考えてみると、先輩達がそれぞれの時代にどのようなことを考え、どのような生き方をしたかを振り返るのも現在の団員である私達にとって非常に有意義なことのように思えるのです。

<東北大学男声合唱団の誕生>

 日本が敗戦を迎えた翌年の昭和21年、東北大学キャンパスには、東北大学合唱団(混声・30年に解散)、工明会合唱団(男声)、東北大学医学部合唱団(混声)等の合唱団が結成された。昭和24年には西多賀で第一教養部合唱団(混声・現在の東北大学混声合唱団)、片平で第二教養部合唱団(男声)、向山で第三教養部合唱団(混声)、が結成されるなど学内の合唱団の活動は大いに盛り上がりを見せていた。この時期、とりわけ第一教養部合唱団の活動はかなり充実しており、かなりの実力をともなっていたという。しかしながら、本格的な男声合唱を求める声があり、昭和26年春、片平の講堂(現・公孫樹食堂)を練習場として、全学部学生からなる東北大学男声合唱団が設立をみたのであった(当時・部員数約50数名)。第1回の公開演奏は昭和26年6月に、仙台市公会堂(現・市民会館)大ホールを会場として行なわれた。また同年、同志社大学グリークラブ、27年には慶応ワグネルソサイエティ男声合唱団と合同の演奏会をもつなど、相当に活発な活動が行なわれた。その頃には団員数は80人を超えていた。

<戦後興隆期の到来>

 東北大学男声合唱団は創立した昭和26年から全日本合唱コンクールに参加し、昭26・28・29年には東北地区に於いて優勝し、26年には、全国3位、29年には全国2位という輝かしい成績を収めたことは、我が団の成長にとって見逃せない活動であった。同時に、歌うことの楽しさを社会の人々と分かち合い、文化の向上に寄与していくという基本理念のもとに、昭和38年まで続いた東北・北海道演奏旅行などの対外的な活動も次第に活発化していった。昭和30年には学内音楽祭を主催して成功を収め、さらに仙台市公会堂において単独の演奏会を持ったことは画期的な出来事であった。また、初めての合宿が行なわれたことは当時の合唱団の上昇気運を感じさせる。昭和32年11月9日には、「自分たちの実力を試すうえにも、また地方の合唱団という殻を打ち破って飛躍することを狙って」東京公演を行なった。この年「男声」は既に7月に、社会に対する合唱音楽の普及、会員相互の友好、人格的技術向上を目的とする大学合唱協会(DGK、加盟団は名大男声、京大合唱団、東大コール、横国グリーなど)に加盟していたが、東京公演の際にはDGK各団の多大な後援を受け、また中央の大学合唱団の積極性や合唱に対する真摯な態度に接して大きな影響を受けた。この東京公演について後の記録に「団員が自信を持って歌い、実力を十二分に発揮できた。」と残っている。同年12月にはDGKと目的をほとんど一にする在仙大学合唱団の集まりである七声会が成立し、仙台の合唱活動も発展期を迎えた。

<変動と再出発の時期>

 昭和35年には当時の日本社会を根底から揺り動かした60年安保闘争が起こり、団内にもその影響が現われて委員会が解散するという事態も起こる。DGKもその例外ではなく、一時その活動を停止するが翌年再出発をする。男声とDGKとが再び交渉をもつのは昭和37年のことであるが、2年間DGKから遠ざかっていた男声はこの時、他団と自団の合唱に対する捉え方に違いに数段の開きがあることに大きなショックを受け、それからの4・5年間、男声はこれまで見られなかった特徴ある活動を次々と行なっていった。一つは昭和39年に、過去約10年間行なってきた東北・北海道演奏旅行に終止符を打ち、わって、合唱を通して歌う仲間相互の理解を深め、文化の向上に寄与しようというスローガンのもとに「合宿旅行」という形態が具体化される。しかし、この画期的な活動も数年後の団員の認識不足によるマンネリ化は避けられず、43年からは宮城県内の高校・中学を中心に訪問演奏会が行なわれることになる。もう一つは、DGKの昭和39〜41年までの統一テーマ「日本の新しい歌を求めて」にのっとってなされた「日本民謡の研究」「創作活動」の2つであり、これらは当時の男声が自分達の気持ちや自分達の歌いたい曲を探し求める具体的な方策であった。日本民謡を素材にした合唱曲は38〜42年の5年連続して定期演奏会のレパートリーに取り上げられている。

<前衛的合唱活動の時期>

 時は移り、日本社会の音楽的環境は質、量ともに以前とは比べるもなく豊かになった一方、合唱界全体は低迷の状況へと向かっていった。このような状況の下におかれた男声は昭和47年、第20回定演ではミュージカル曲「Pogy&Bess」、21回では従来の合唱な形態からすると型破りな「HAIR」、22回ではロックオペラ「JESSUS CHRIST SUPERSTAR」、23回には「GODSPLL」を演奏する。これらのロック路線の根底には、既成の合唱の領域を越えて自分自身で合唱のために編曲し、自分達が日常持っている悩みや情熱を歌いたいという願いがあったように思われる。そして29回定演まで団員によるオリジナル・ステージとも言うべき「アラモ」(26回)、「ウェストサイド物語」(27回)、ジャズ・コーラス・ナンバー」(28回)、「歌舞伎十八番・勧進帳」(29回)などのステージをもつに至る。またこの時期に、他大学男声合唱団とのジョイントコンサートが次第に我が団の活動の中で大きな位置を占めているが、DGKが衰退してしまったその当時としては、他団とのジョイントは我が団にとって多くの刺激を得られる数少ない場であったといえるであろう。

<現在、そして未来>

 第30回定期演奏会からは、それまでよく取り上げられてきたオリジナル・ステージは影をひそめ、即存の作品を演奏するようになった。しかも、「新しい作品の発掘」ということを目標に掲げ、今日までに海外の数々の作曲家・作品を東北に、ひいては日本全国の男声合唱団に紹介してきた。この功績はわが団の誇りとすべきことである。第30回定期演奏会の「グリーグ男声合唱曲集」「ヤナーチェク男声合唱曲集」、第31回の「バルトーク」の作品、第32回の「ヒンデミット男声合唱曲集」、第33回の「アルヴェーン男声合唱曲集」、第38回の「レーガー男声合唱曲集」、第39回の「マデトヤ男声合唱曲集」などがこれにあたる。また、外国作品ばかりでなく日本の作曲家の作品も多く手がけてきた。多田武彦氏の作品はもちろん、発表されたばかりの新しい作品も積極的に取り上げた。三善晃氏の「三つの時刻」「路標のうた」、武満徹氏の「風の馬・第2ヴォカリーズ」「Grass」などがこれに該当する。このように、わが団は新しい男声合唱の世界を、新しい作品を定期演奏会で演奏することにより広げていこうとする姿勢がうかがえる。 しかしここ数年、1993(平成5)年に東北大学で教養部が廃止されサークルに入る学生が減少したことや、社会全体の合唱に対する興味が薄れてきたせいもあり、団員数の減少という問題が上がってきた。それでも、わが団は自分たちなりの真の男声合唱を追求すべく活動を行なっている。毎年の活動の成果が定期演奏会の場で発表されるということは非常に意義深い。これからも定期演奏会の曲目だけでなく、演奏自体にも注目していきたい。


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